清見寺の歴史

創建について

当山は今からおよそ500年前の長禄2年(1458)に開創されたといわれ、永禄年間(1558~70)には甲斐武田軍と越後上杉軍との上野における攻防戦のさなか、兵火に遭い焼失し荒廃。しかし慶長元年(1596)、京都から来た崇譽岌山上人と郷士鹿野和泉守が開基となって中興されたと伝えられています。

吾妻川の雄大な流れと周辺の松原が駿河国(現在の静岡)三保の松原に似て美しかったことから
” 三保うつす ここも清見の寺なれや 外にたぐひは 浪の松原 ”
と開山岌山上人がお歌いになりました。(『吾妻郡略記』)。

江戸時代の清見寺本堂です。

開山岌山上人と林弾左衛門のカシャ退治

元和8年(1622年)、清見寺開基鹿野和泉守の葬列にカシャが現れ、その遺体を奪おうとしました。カシャは浅間山の頂きから黒雲のように湧き上がり瞬く間に岩櫃山まで覆い尽くしました。よく見ると四つ足で猫のようでありました。あたりは急に真っ暗闇となり、雷鳴が響き渡り、雨あられが降り始めました。参列していたものたちはみな恐怖のあまりその場から逃げ出しました。しかし逃げずに棺を守ったのはただふたり、清見寺開山岌山上人と、真田昌幸公から「頼もしきものなり」と評された林弾左衛門でありました。

岌山は「南無阿弥陀仏」と念じて数珠で虚空を払い、林弾左衛門は「南無八幡大菩薩」と念じて刀でそのカシャに斬りかかる。必死に棺を奪われまいとすること1時間ほど。ようやく静けさがもどり青空が広がりました。林弾左衛門の刀をみると切っ先三寸ほどのところに血がついていたといいます。なんとも不思議な出来事でありました。

こうして鹿野和泉守の遺体を守った岌山上人と林弾左衛門は人々からこう評されたのであります。
「このふたりがいれば、どんな悪鬼悪魔も寄せ付けないにちがいない」と。 こうして清見寺は人々の信仰を集めて寺は益々繁栄したということです。

(『吾妻記』より)

江戸時代の清見寺本堂内陣の様子です。前列に総代、後ろが第14世台麟。

当山開基狩野(鹿野)氏について

狩野(鹿野)氏は藤原南家を祖とし、その始まりは今からおよそ1,000年前、伊豆の狩野川沿いの要害に狩野城を築いたこととされています。延徳3年(1491)、伊豆に侵攻した伊勢新九郎(後の北条早雲)との戦いに敗れるも、生き残った一族が上野国に移り住んだといいます。
 永禄年間(1558~1570)まで吾妻城(中条城)を本拠としていましたが、武田信玄の上野侵攻によってその配下である真田氏に属することとなりました。真田信之が後北条氏の侵攻に備え、吾妻地方の武士たちに横尾(中之条町大字横尾)の警備を命じたときに記した『八幡山番帳』には、狩野志摩守や右馬助の名がみられます。関ケ原の戦い以後も真田氏に仕えていた狩野一族ですが、真田信之の次男信政が、信濃国松代藩二代藩主となったとき、随行して松代藩士となったものと、沼田領真田信利に仕えたものと分かれることになりました。
沼田領に残った狩野一族には、承応3年(1654)伊勢町(中之条町大字伊勢町)町割りに際して中心的役割を果たした善太夫(沼田藩士、150石)や伊兵衛(帰農して名主、善太夫弟)、そして沼田藩の御年寄勘助(350石)がいました。しかしその勘助は家老禰津宮内や湯本図書らとともに藩主信利による弾圧を受けて鎌原へ入牢し、欠所(家財没収)となりました。その結果、跡目は剣持姓を名乗り今日に至っているといいます。
一方、松代藩二代藩主信政に付き従った狩野氏のなかには幕末まで仕えた家もありました。鹿野外守泰敬(50代)の子勇之進(51代)は海軍中将となり男爵を授けられ、明治45年(1912)貴族院議員になっています。同家に伝えられた『武道免許状』は、平成12年(2000)8月中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」に寄贈されました。

狩野(鹿野)一族の墓
◆鹿野新左衛門妻(寛永15年1月11日寂)
◆鹿野新左衛門 (慶安元年4月29日寂)
◆鹿野右馬之助 (寛永15年5月7日寂)
◆鹿野右馬之助妻(寛永21年1月6日寂)
◆鹿野勘助 (延宝3年4月27日寂)
◆鹿野勘助妻 (寛永15年寂)
※その他の墓石は現在不明ですが、当山過去帳より狩野志摩守、開基和泉守以下一族の戒名と没年が伝えられています。