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当山開基狩野(鹿野)氏について

当山開基狩野(鹿野)氏について

当山開基狩野(鹿野)氏について

狩野(鹿野)氏は藤原南家を祖とし、その始まりは今からおよそ1,000年前、伊豆の狩野川沿いの要害に狩野城を築いたこととされています。延徳3年(1491)、伊豆に侵攻した伊勢新九郎(後の北条早雲)との戦いに敗れるも、生き残った一族が上野国に移り住んだといいます。
 永禄年間(1558~1570)まで吾妻城(中条城)を本拠としていましたが、武田信玄の上野侵攻によってその配下である真田氏に属することとなりました。真田信之が後北条氏の侵攻に備え、吾妻地方の武士たちに横尾(中之条町大字横尾)の警備を命じたときに記した『八幡山番帳』には、狩野志摩守や右馬助の名がみられます。関ケ原の戦い以後も真田氏に仕えていた狩野一族ですが、真田信之の次男信政が、信濃国松代藩二代藩主となったとき、随行して松代藩士となったものと、沼田領真田信利に仕えたものと分かれることになりました。
沼田領に残った狩野一族には、承応3年(1654)伊勢町(中之条町大字伊勢町)町割りに際して中心的役割を果たした善太夫(沼田藩士、150石)や伊兵衛(帰農して名主、善太夫弟)、そして沼田藩の御年寄勘助(350石)がいました。しかしその勘助は家老禰津宮内や湯本図書らとともに藩主信利による弾圧を受けて鎌原へ入牢し、欠所(家財没収)となりました。その結果、跡目は剣持姓を名乗り今日に至っているといいます。
一方、松代藩二代藩主信政に付き従った狩野氏のなかには幕末まで仕えた家もありました。鹿野外守泰敬(50代)の子勇之進(51代)は海軍中将となり男爵を授けられ、明治45年(1912)貴族院議員になっています。同家に伝えられた『武道免許状』は、平成12年(2000)8月中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」に寄贈されました。

狩野(鹿野)一族の墓
◆鹿野新左衛門妻(寛永15年1月11日寂)
◆鹿野新左衛門 (慶安元年4月29日寂)
◆鹿野右馬之助 (寛永15年5月7日寂)
◆鹿野右馬之助妻(寛永21年1月6日寂)
◆鹿野勘助 (延宝3年4月27日寂)
◆鹿野勘助妻 (寛永15年寂)
※その他の墓石は現在不明ですが、当山過去帳より狩野志摩守、開基和泉守以下一族の戒名と没年が伝えられています。