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  2. 令和2年企画展「本堂焼失から再建へ」

― はじめに ―  
 大正11年4月11日早朝、灰塵に帰した清見寺本堂。宝暦11年(1759)、第8世寒誉の代に建立された厳かな本堂だったといわれています。堂内の欄間彫刻は焼失してしまいましたが、幸いにも近隣の方々のお陰で本尊や仏具は運び出されました。堂内に保管されていた鳥追太鼓(県指定重要有形民俗文化財)は、吊していた縄を切り、転がして外へ運び出されたといいます。 
 それから本堂再建に向け、何度も計画されながらも実現に至りませんでした。第15世台淳は、再三の計画中止に「もうこのままで終わるのか」と当時の心境を語っています。しかし火災から43年後の昭和39年、檀信徒皆さまのご尽力によって新本堂が落慶いたしました。再建までお寺を支えて下さった先人の篤い信仰心に敬意を表するものであります。
 この度清見寺では、「本堂焼失から再建へ」と題し、旧本堂や焼失後の仮本堂(現客殿)の写真を展示し、祈りの場として復興を遂げた当山の姿をご覧いただきたく企画いたしました。地域の皆さま方と共に、今後の当山のあり方を考える契機になれば幸いに存じます。

1.明治時代の様子と本堂焼失まで 
 清見寺の本堂は、明治12年(1879)開校の中之条小学校仮校舎として、同18年新校舎(現博物館)完成までの6年間、多くの学生が通ったといいます。開校当時の生徒数は112名、教員3名、保護役1名でした(『清見寺誌』)。 
 また徴兵検査のために吾妻郡中から壮丁(軍役に服せられる者)が紋付き羽織はかまで参集する場所でもあり、当時の本堂は宗教的な役割だけでなく町の施設としての役割も担っていたといえるでしょう(「清見寺報」1号、昭和39年)。
 しかしその本堂も明治時代後期になると腐朽甚だしく、明治32年(1899)に晋山した第14世台麟※の生活も養蚕や農業などの副業に頼るしかなく、それでもなお窮乏した生活であったといいます。そんな苦しい状況ではありましたが、同38年頃から檀信徒の協力を得て本堂・庫裏の屋根替え、本堂荘厳や仏具の彩色等の修復を施し、建立当時の美観が再び整いました(「清見寺小史」15世台淳著)。
※第14世台麟・・・信濃国(現長野県)下水内郡常磐村戸狩の生まれ。7歳の時に善導寺第30世吉水麟達(飯山市光明寺より転薫)の門に入る。

①境内全景(明治期)
第14世台麟代の改修以前の様子を伝えています。明治34年9月刻。合資会社名古屋光彰館製版。

②旧本堂と客殿
現在の太陽誘電付近から撮影したものと思われます。左側が本堂。大正10年の火災により焼失。

③旧本堂としだれ桜
当時は「吾妻名所」とされていたしだれ桜。大正10年の火災により焼失。

④旧本堂内陣
大正10年4月の火災により欄間の彫刻は惜しくも焼失しましたが、本尊のほか、仏具は焼失を免れました。
前列右から:飯山大仏師清水佐助・剣持真平・中沢祥平・高橋啓八・町田明七(寅次郎)・剣持源吉・望月藤吉・伊能八平(秋次郎)
内陣 :第14世忍誉台麟
写真②・③・④は本堂屋根替えの際(大正2年春)に撮影されたものと思われます。

2.仮本堂を建設
大正10年に全焼した本堂跡地は石垣だけが残されたまま更地となりました。翌年春、客殿のあった場所に仮本堂を建設し、焼失を免れた本尊を安置しました。

⑤文化堂観楓会
全焼した翌年(大正11年)に建立された仮本堂(現在の客殿)。
(右から)15世台麟・文化堂外交員西沢寛一・遠藤材木店佐藤国明・文化堂外交員関周一郎・庭師の妻子?・文化堂主人鳥居九一・応援佐藤佐次・上毛新聞種取羽鳥伊之吉・応援山田(新井)富吉・文化堂外交員佐藤喜市・応援藤村安次郎
(大正13年10月25日撮影、故関周一郎氏所蔵写真より)

⑥総代望月藤吉氏葬儀
左が仮本堂(現在の客殿)、右は蚕小屋。葬送の習俗を伝える貴重な資料です。(大正14年4月撮影)

⑦吾妻仏教樹徳会花まつり
吾妻仏教樹徳会が主催となって毎年行われた花まつりの様子。後ろの建物が仮本堂。(昭和9年4月撮影)

3.本堂再建再三の計画中止
昭和16年(1941)、本堂再建に向けて清見寺貯金組合を組織。1口月50銭、最高15口までの積立貯金をしましたが、太平洋戦争勃発により中止となりました。今より間口8間の木造瓦葺で総工費4万円という豪華な本堂を計画しました(「清見寺報」7号、昭和41年)。

⑧昭和16年積立貯金の帳面(第1回再建計画)

⑨昭和16年本堂設計図(第1回再建計画)

⑩昭和25年勧募のお願い(第2回再建計画)
第2回目の再建計画は昭和25年でした。再建のために境内の立木約150本を伐採して費用に充てようとしましたが、朝鮮戦争勃発による物価高騰、インフレ進行により資金不足となり失敗に終わりました。

⑪昭和28年本堂設計図
続く第3回目の再建計画は昭和28年。以前より規模の小さい本堂を設計しましたがこれもまた中止となりました。

4.新本堂完成
大正10年の本堂焼失の後、本堂跡地は石垣のみを残して竹藪と化し、第15世台淳は「もうこのまま終わるのか」と思っていたところ、昭和38年、第4回本堂再建計画において檀信徒の尽力によって見事新本堂が完成しました。「東京オリンピックの前年にて、設備投資、公私建築ブーム時に際会し、檀信徒の経済上の好期を捉えたりしは成功の最大要因なり」と15世台淳が後に振り返っているように、時代の流れに乗って順調に資金が集まりました。 
 原案では寄付金400万円、寺有金300万円、計700万円で6間四方の木造本堂を計画していましたが、次第に予算が膨らみ、鉄筋コンクリート造りで総工費900万円となりました。 施工は鵜川工業、設計は井上物産。その他合計1150万円。間口6間半、奥行6間。

⑫勧募のお願い(昭和38年)

⑬新本堂起工式
昭和39年2月1日、建設委員、鵜川工業参列のもと起工式が執り行われました。

⑭足場組写真
同年2月中に足場組の様子。たくさんの鉄筋が組まれているのが見える。建設現場に立つ第15世台淳。

⑮瓦上げ
5月18日、瓦上げ。五反田・岩本・蟻川から檀信徒20名が奉仕。

⑯新潟地震による被害
6月10日に瓦工事が完了しましたが、同月16日に新潟大地震により鬼瓦・大棟が破壊されました。修理までに10日余りかかりました。

⑰新本堂落慶

⑱落慶法要
昭和39年11月25日、十夜法要に併せて新本堂の落慶法要が執り行われました。

⑲落慶式での表白
第15世台淳の表白。表白とは法要の趣旨を本尊の前で告げる文のこと。

⑳落慶式での式辞
建設委員長を務めた唐沢参二氏(檀徒総代長)の式辞。「本堂の再建は、柦(檀)徒に課せられた義務であるとまで進言された檀家の方もあるほどで」という部分や「檀家の皆様も亦、最近特に本堂再建を熱望され、浄財を快く寄進されるというような熱意溢るゝお申し出に応うべく」との言葉に当時の人々の菩提寺復興への信仰心とエネルギーを感じ取ることができます。

㉑本堂建設委員
前列右から)小池秀雄氏・唐沢参二氏・第15世台淳師・今井正太郎氏・吉田正明氏・(後列右から)第16世正淳師・唐沢姫雄氏・(鹿野松太郎氏?)後藤海造氏・吉原仁三郎氏

― おわりに ―
昨今の寺院を取り巻く環境は大きく変わりつつあります。葬儀の簡略化、火葬しか行わない直葬の増加、若者の寺離れなど、一昔前には考えられなかったことが普通になりつつあるように感じられます。また少子高齢化や過疎化による檀信徒の都市部への移住は、本来身近な存在でなければならない寺院存続の危機といっても過言ではありません。 
 こうした時代にあって、多くの方々に必要とされる寺院のあり方を再考する時が来ているといえます。古来より寺院は、み仏の救いを信じ、私たちの安穏な暮らしを祈る場所であり続けてきました。 
 これからも地域の皆様方と共に、この清見寺を心のより所として次世代へ引き継いでいけるよう努めてまいりたいと存じます。 
合 掌