いつもやさしさに包まれていることを忘れずに
以下は本日のお寺ヨガ後のお話です。
子どもの時、家に帰るとお母さんやお父さんが待っていて、「ああ、ほっとしたなあ」と思ったことはありませんか?
「わが心いたく傷つきかえりこぬ うれしや家に母おわします」(吉井勇)
たとえ傷ついて家に帰ったとしても、家には母がいて、その母の愛情に包まれる喜びを感じさせてくれる歌です。小さい頃、このような経験がある方も多いと思います。
子どもでなくとも、疲れ果てて家に帰った時、あたたかい家族に包まれることは本当に幸せだなあと思いますね。そんな家があるからこそ一日を頑張って過ごすことができます。
それと同じように、一日を人の一生に喩えるとどうでしょう?一生を終えた時、母と同じようにやさしく包みこみ守ってくれる極楽浄土の阿弥陀さまが待っていらっしゃるとしたら。
「いろいろあったなあ。楽しいこともあった。でもつらいこともあったなあ。これで最期だ。いよいよ自分も旅立つんだ」という時に、お母さんのやさしい眼差しに包まれ、守られるのと同じように、決して見捨てないみ仏のやさしい眼差しに包まれるとすれば、幸せなことだと思いませんか?
たとえ苦しいことや悲しいことがあったとしても、み仏は決して見捨てません。そんなみ仏がいつも見守っているからこそ、自分の人生を頑張って過ごすことができるのではないでしょうか。
清見寺の本堂前にある大きな蓮台(大蓮華)は、極楽へ往生(※)したらどんな気分だろうかと瞑想するとともに、「いつも阿弥陀さまのやさしさに包まれ、守られているんだ」ということを再認識するためにあります。
暮らしの中で時には疲れ果て、生きることが苦しくなる時もあるかもしれません。そんな時、この蓮台に乗り、自分が決してひとりぼっちではないことを実感していただけたら幸いです。
※往生とは南無阿弥陀仏の一念のうちに西方極楽浄土の蓮の花に生まれることをいいます。
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