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いわびつ潜龍院最後の法印、禰津岩雄の墓

禰津岩雄の墓

今から約540年前の天正10年(1582)、真田昌幸は武田軍の立て直しを図るため、岩櫃山麓の地へ退却を提案するも、実現せず武田勝頼は自害。ここに武田家は滅亡してしまいました。真田昌幸が勝頼を迎えるために建てた御殿は真田の一族である禰津昌月が譲り受け、自ら潜龍院と称して修験者となったとわれています。

清見寺にはその潜龍院最後の法印、禰津岩雄(潜竜院第15世幸道の子)の墓があります。岩雄は法印として鳥頭、川戸の二社の別当職を勤めていましたが、明治に入りその職を解かれ、権少講に任ぜられて鳥頭神社の祠掌を勤め、明治26年9月2日、60歳で没しました。江戸から明治へと時代の転換期を生きた一人の人物の墓から、時代を超えて遠く戦国時代をも偲ばせてくれます。

修験寺院として江戸時代を通して存続した同院でしたが、慶応4年(明治元)、新政府により出された神仏分離令によって修験道は禁止となり、明治17年に廃院となりました。護摩堂は原町顕徳寺本堂として移築されました。

※岩雄の父幸道(潜龍院15世、安政4年没)の位牌が本堂に安置されています。

※岩雄の墓の左隣には、小谷春樹(岩雄の二女繁美の夫。高知県生まれの医師。明治24~5年頃に中之条町に医院を開業。明治30年9月20日没。享年31歳)の墓が建っています。

第15世禰津幸道の位牌

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