今月の言葉「他力の信 いたらなさを知って おかげさまを知る」

お釈迦様は、「この世はたくさんの思い通りにならないものに満ちている」とお説きになりました。たとえば生老病死(四苦)をとっても、人はだれもが年老いて、病んでいき、死んでゆく。どうすることもできないのであり、それにとらわれすぎていては苦しみが増すばかりだというのです。

すべてのことを自分の思い通りにしようとは考えず、

「自分にはできないこともある」

と気を楽にして暮らしていきたいものです。

先ずは自分のいたらなさ、愚かさを知ることです。自分の計らいではどうしようもないことを、私たち人間よりもずーっと大きな仏菩薩の力にお預けすることを「他力」といいます。

「他力」にすがるなんて弱虫だなって感じる人が居るかもしれませんが、「他力」を信じることはおかげさまの心を知ることであり、仏菩薩のような優しい目をすべての人々へ差し向けられる強い心が備わるのです。

お念仏のみ教えでは「他力を信じる」とは阿弥陀さまの力(本願力)を信じることを意味します。阿弥陀さまのみ名を称えて、日々いかされていることに感謝しつつ、充実した日々を過ごしたいものです。

今月の言葉「おーい、君の家が虹の中にあるぞオ」

今月の言葉は吉野弘さん「虹の足」の一節です。

雨上がり、雲間から注ぎ込む陽の光。

一面に広がる田圃の中に「虹が足を下ろした」。「虹の足の底に小さな村といくつかの家がすっぽり抱かれて染められていたのだ」と続く。

「それなのにそこに住んでいる人は、家から飛び出して虹の足をさわろうとする人影は見えない。」

そこに住んでいる人たちへ、バスの乗客が呼びかける言葉が「今月の言葉」です。

「おーい、君の家が虹の中にあるぞオ」

そして最後はこう結びます。

  そんなこともあるのだろう

  他人には見えて

  自分には見えない幸福の中で

  格別驚きもせず

  幸福に生きていることが――。

吉野さんはこの詩で、「幸せは自分では気づきにくいものなんだ」と教えてくださっているように思います。

本当は今のままで幸福なのに、もっと大きな幸福が手に入ると思っていたら、いつまでたっても心は満たされることはありませんね。

来月には桜も開花し、散策も楽しい時期となりますね。「本当の幸せとは何か?」を考えつつ、日々大切に進んでまいりたいものです。

今月の言葉「勝とうとすることと負けまいとすることはちがう」

「勝とう」とすることと「負けまい」とすることはちがう

人類学者、霊長類学者でゴリラ研究の第一人者、山極寿一先生のことば(『人類で大事なことはみんなゴリラから教わった』より)

サルはけんかを始めると、みんな勝ちそうなサルに加勢する。ちょうど人間が弱い物いじめをするのと同じように、はっきりとした階層社会をつくる。それに対してゴリラは、勝ち負けをつくらずに、けんかを止める。これはだれもが同じようにつきあおうとする対等社会をつくることを意味するという。このことからゴリラの態度のほうが人間のめざす社会にちかいのではないかというのである。

学校でのいじめ問題もそうだ。強い方に加担してはいけない。また、こども社会だけでなく戦争が終わらないのもそうだ。私たちが明るい社会をつくるためには、「勝とうと」することよりも「負けまい」とする態度が必要なんだなと実感した。

浄土宗からのメッセージ「(前略)社会に慈しみを、世界に共生(ともいき)を」と同じことがいえるんだなと学ばせてもらった。

今月の言葉「一丈の堀を越えんと思はん人は・・・」

明けましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします!

さて、皆さんは「今年はこんな年にするぞ!」という抱負はあるでしょうか? 自ら目標を設定し、それに向けて励むことは素晴らしいことですね。

今月の言葉は宗祖法然上人の「つねに仰せられける御詞」からです。

「一丈の堀を越えんと思はん人は、一丈五尺を越えんとはげむべし」

一丈は約3メートルです。勢いをつけて跳ばないと、途中で足が「じゃぼんっ」と水に浸かってしまうかもしれません。オリンピック選手なら8メートル跳ぶことができるようですが、普通の人なら3メートルの幅でさえもかなりたいへんです。その堀を越えようとするなら、はじめからそれよりもっと幅の広い、一丈五尺(約4.5m)の堀を越えるつもりで励まなければならないという意味です。

法然上人は阿弥陀さまの救いもそれと同じで、中途半端な気持ちでお念仏をとなえるのでは極楽往生は遂げられない。「必ず極楽往生が叶う」と強く信じることの大切さを説いておられるのです。

たとえば野球選手がバットでボールを打つ瞬間を考えてみましょう。スイングを始動してからボールにただ当てるだけでは鋭い打球にはなりません。いくら鋭いスイングであっても遠くへ飛ばすことはできないのです。どうすれば遠くへ飛ばせるかというと、バットにボールを当てた瞬間から、ボールを乗せるようにして打ち返す、つまりフォロースルーが大切なのですね。

必ず打ち返すという鋭いスイングのように、私たちも目標に向かって「強い信念」を持ち、今年一年励んでまいりたいものですね。

今月の言葉「やさしい心の持主は・・・」

今月の言葉は吉野弘さんの誌「夕焼け」から。

「やさしい心の持主は 他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから」

主人公の娘は、満員電車に乗車してきたお年寄りに二度までは席を譲る。しかし次に現れたお年寄りには席を譲らない。でも心のやさしいその娘は、譲ろうかどうしようか迷っているのである。「美しい夕焼けも見ないで。」という最後の一文が印象的な詩です。

 この詩の中で、お年寄りに席を譲ろうとしたのは主人公の娘だけ。どうして他の乗客は席を譲ろうとしなかったのだろう・・・。苦しい思いをしているその娘がかわいそうに思えてくるのは私だけでしょうか。「やさしい心の持主は いつでもどこでもわれにもあらず受難者となる」けれど、この娘のように他人を思いやることはとても素晴らしいこと。

世の中お互いに支え合って生きていくことはとても大切ですね。「いつも自分のことで精一杯・・・」とならないように、やさしい心を持ちたいものです。

それは仏さまの慈悲心(抜苦与楽)に通ずるものであります。

今月の言葉「物言えば 唇寒し 秋の風」

今月は松尾芭蕉の句から。

「人の悪口(短所)を言うと、後味の悪い思いをする・・・。それはまるで秋の冷たい風が口から入るように、寒々とした気分になるようなものだ」という戒めの句。

お釈迦の教えである八正道にも

①正しい見解(正見)、②正しい思惟(正思)、③正しいことば(正語)・・・

とあります。今年の秋は「正しい行いとは何か」を常に考えつつ、大切に過ごしたいものですね。

――善きことを申せば人のためとなり、世のためとなる。悪しき口をたたけば人に憎まれ世にしかられる。恐るべきは口の位なり――(福田行誡上人)

南無阿弥陀仏

今月の言葉「〈本当に生きた日〉は人によってたしかに違う」

今月の言葉「〈本当に生きた日〉は人によってたしかに違う」

―茨城のり子「ぎらりと光るダイヤのような日」より

もしも今、人生を終えるとしたら、皆さんにとって〈本当に生きた日〉はいつでしょうか?

それは生きていてよかったと思える幸福な日かもしれないし、命の危機に直面した瞬間であったりするかもしれません。ただよく考えてみると〈本当に生きた日〉は意外と少ないものだといえます。

そうした日々は人間にとって大切な物だとは思いますが、もちろん自ら求めようとしても得られるわけではありません。では私たちにできることは何か?

平凡な日常の暮らしが、ひょっとしたら将来「ぎらりと光るダイヤのような日」になる可能性もあるのではないか・・・?。そう思うと「今」がとても大切に感じられます。

目の前のことを「ただ」行うのではなく、「有り難いこと」と受けとめて、一生懸命取り組むことが、将来「ぎらりと光るダイヤのような日」だったと思える一つの道のように思います。

今月の言葉「愚痴(ぐち)にかえりて極楽に生まる」

皆さんは日頃の生活の中で、自分の至らなさや愚かさを痛感することはありますか?

「ある」と答えた人は、み仏の救い出会うことができる人です。なぜなら自らの行いを悔い改めること、つまり仏菩薩のみ前において懺悔(さんげ)することは、修行の始まりであり、人として少しでもよくありたいと願う心に通じるからです。

やがてそれは覚りを目指す心=菩提心を発こすことになります。「自分こそ完璧な人間だ」と思う人ほど、至らなさや愚かさに気づくことはなく、御仏の救いにであうことはできないのです。

「浄土門の修行は愚痴にかえりて極楽に生まると知るべし」

・・・・・法然上人「つねに仰せられける御詞」

「浄土門」とは、この世において覚りをめざす「聖道門」に対する言葉です。法然上人は、自分の力によってこの世で覚りを目指す「聖道門」では、すべての人々が平等に救われないとお考えになりました。それはお釈迦様の生きていた時代から遠く離れた末法の世にあり、しかもすべての人々が煩悩におおわれた罪深き存在であり、また救われようのない存在であることにお気づきになったからなのです。

そこで、万人救済の道である「浄土門」でなければならないとお説きになったのです。私たちは自らを飾ることなく、ありのままに念仏行に励めば、阿弥陀さまは私たちの思いに応え、優しい眼差しを向けてくださるのです。


「救い」とは「幸せ」のことです。念仏行によって、私たちは生きている時の平穏な暮らしと、死後の極楽往生が約束されるのです。

自らの至らなさや愚かさを痛感してこそ救いの道が見えてくるのです。

私たちも飾ることなく、ありのままの姿でお念仏を称えようではありませんか!

今月の言葉「寝ていても うちわの動く 親ごころ」

我が子が気持ちよく寝られるように、うちわで扇(あお)いであげる。子供が先に寝るか、あるいは先に親がうとうとし始めるか…。それでもまだうちわを扇ぐ手を休めない・・・。

「もしも扇ぐのをやめてしまったら、我が子は寝苦しくて目を覚ましてしまうかもしれない・・・。」

我が子を思うやさしい親心が伝わってきます。

最近では夜でもエアコンが必要なくらいに熱いので、うちわで扇ぐ家庭は少なくなったかもしれませんが・・・。

その親心と同じように、西方浄土から平等の慈悲心をもって私たち凡夫を見つめてくださる阿弥陀さま。

そのまなざしを感じつつ、毎日を感謝して過ごしたいものです。

もうすぐお盆がやってくる。両親や祖父母、ご先祖さまにも感謝の思いを伝えましょう!