初物を持仏に供え「いただきます」

この時期の初物といえば初ガツオでしょうか?それとも野菜でしょうか?

「初物を食べた時は東を向いて笑う」といわれますが、その始まりは大坂や京都の人が、江戸のある東の方角を向いて優越感に浸りながら初物を食べたことによるのだとか。その反対に江戸の人は西を向いて笑うんだそうです。

いずれにしても昔から日本人は初物が大好きなのは間違えありません。

初物が来ると持仏がチンと鳴り

初物を手にしたら、まずはお仏壇に手を合わせて、鐘をチンと鳴らす、こういうご家庭が昔は多かったことでしょう。

しかし今は仏壇がない家もあったり、手を合わせる時間がない・・・という方もいらっしゃることでしょう。その時は、ぜひ阿弥陀さまやご先祖さまのいらっしゃる西方(極楽浄土)に手を合わせてからいただきたいものですね。

一層美味しく感じられることでしょう。

今月の言葉「さあ今だ 虫も小鳥も 生き生きと・・・」

「さあ今だ 虫も小鳥も生き生きと 見つめる先に 明日の歓び」

暖かい日が続き、周りを見渡せば色とりどりのお花が咲きこぼれる気持ちのよい季節となりました。庭を歩いてみると、アリやミミズなどの小さな虫から小鳥などの動物にいたるまで一斉に動き始めたように感じられます。

お釈迦様は子どもの頃、一匹のミミズが土の中から出てきたところに遭遇しました。すると突然、一羽の小鳥がそのミミズをくわえて空へと舞い上がったかと思うと、大きなワシが現れ、その小鳥を捕まえてしまったのでした。自然の摂理を目の当たりにしたお釈迦様は、小さな鳥を自分の身に置き換えて、この世の無常と生きることの意味を考え始めたといわれています。

この春、虫や小鳥を見ながらお釈迦様の少年時代に思いを馳せるのもいいかもしれません。そして生かされていることへの感謝と歓びの中に、明るいあしたへと歩んで参りましょう。

今月の言葉「春風 そよそよ思いのままに・・・」

今月の言葉「春風 そよそよ 思いのままに 只々歩め 聖者の道を」

のどかで柔らかく吹く春風を感じる季節となりました。今月のことばは「風」について取り上げました。

お釈迦さまは次のようにおっしゃっています。

「非難と賞賛に心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように・・・(中略)・・・他人に導かれることなく、他人を導く人、―諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。」 

―「スッタニパータ」(『ブッダのことば』中村元訳)―

自然の風は人工的につくる扇風機と違って、風向きや強弱をコントロールすることはできません。ましてやその風を網で捕まえようとしてもできるはずがありません。風は自分の進むべき方向に、進みたい速度で吹いています。風は何かに邪魔されることなく、寄り道するこもなく、「こうだ!」と決めた道を歩んでいると言えます。私たちもその風と同じように、苦しみを生み出す執着の心を捨て、他人に導かれることなく、人を導く〈聖者〉となるべく歩まなければなりません。

大空を吹く春風のごとくあれ(長谷川櫂『初雁』)

広々とした青い空を吹き抜け、草花や木の実を育む春風。その春風のように、人には優しく、自分には厳しく、志をもって前に進んでいきましょう。

今月の言葉「延促は一念に由り・・・、故に機閒なる者は、一日も千古より遙に・・・」


『菜根譚』洪自誠(今井宇三郎訳註)
「時間の長短は、その人の一念に基づく…故に心のゆったりした者は、一日でも千古よりも長いと思い…」

ゆとりを持った心があれば、同じ一日でも千古、つまり果てしなく長い一日に感じられるものです。時間の長短は心の持ち方次第であるということです。

たしかに同じ一日でも「あっという間だったな・・・」とか、「まだこんな時間なの?」とか、感じる時間の長さは様々ですね。

たとえどんなに忙しくても、心がゆったりしていれば、今まで出会えなかった小さな喜びに出会えるかもしれません。そうすれば自分の見える世界が少しずつ変わっていくかもしれませんね。

どんなに予定が詰まっていても「ああ忙しい、忙しい(心が慌ただしい様子をいう)」とは言わず、心にゆとりを持って暮らしていきたいものです。

今月の言葉「誓願 迷いの闇を滅す」

新年明けましておめでとうございます。皆々様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

「開彼智慧眼 滅此昏盲闇」

意訳:人々の智慧の眼(まなこ)を開いて、視界を遮る迷いの闇を滅し

(『仏説観無量寿経』四誓偈)

これは阿弥陀さまの誓願(お誓い)です。まん丸で明るく照らす月も、それを覆う雲があれば闇となります。それと同じように、私たちの心も煩悩によって覆われており、行き先もわからず闇の中で苦しんでいるのです。阿弥陀さまはその煩悩の雲を払って闇を滅し、月が明るく見えるようにしてくださるのと同じように、私たちを覚りの道へ導こうとお誓いになりました。苦しむすべての人々を救おうと篤く願う心(大慈大悲)からそう決心されたのです。十劫という気の遠くなるような昔のお話であると経典に説かれています。

昔から先人たちは人間の想像をはるかに超えた存在として、神仏に祈りを捧げることを大切にしてきました。人類は今、目に見えない敵である新型コロナウイルスへの恐怖と不安の渦中にいますが、私たちは必ずそれに打ち克つことを願いつつ、神仏に身も心も委ね、心を整えておくことも大切なのではないでしょうか。

今年一年が実り多き年になるよう、私たちも誓いを立て、前を向いて歩んで参りましょう。

今月の言葉「共に喜ぶ心限り無し」

今年も残すところあとわずかになりました。コロナ禍により私たちの日常生活は大きく変わりました。買い物や旅行、そして仲のいい人たちと食事を楽しんだりすることもあまりできませんでした。安心して暮らせる日が一日も早く訪れることを祈ります。

お釈迦様は私たちが持つべき四つの心を示されています。それは四無量心といって、①慈(いつくしの心)②悲(哀れみの心)③喜(共に喜ぶ心)④捨(差別せずとらわれない心)の四つの心を限りなく(無量に)持つことをいいます。

③「喜」は他人の楽を妬まず、共に喜べる心をいいます。他人ばかりがいい思いをしていると、ふつう誰でも面白くないものです。しかしそれを共に喜べる心こそ大切にしなければなりません。

人と接する機会が減ってしまったので、つい自分のことばかりを見つめがちになっていませんか。他人を思いやる心を忘れずに支え合って明るい未来を切り開いていきたいものです。

秋の恵みと心の実り

実りの秋。食欲の秋。自然の恵みをありがたくいただけることは本当に幸せなことです。

お釈迦さまは「人が田を耕すのと同じように、自分は心を耕し、信仰という種子を播き、甘露の実り(さとり)を得るのであるとおっしゃっています。

美味しいものをいただき、お腹いっぱいにするだけでは虚しいものがあります。大地の恵みに感謝するとともに、自分の心に植え付けられた信仰の種子が成長し、いつか「さとり」という果実が実るように努めたいものです。

退屈しない心

「あー退屈だなあ」という時はどんな時でしょう?

例えば、おしゃれなカフェできれいな女性と2人きりで話をしていたとします。
目の前の女性から「なんだかあなたの話は退屈だわ!」と言われたら、立ち直れないくらいショックを受けることでしょう。今では「退屈」とは「つまらない」を意味するからです。

しかし仏教では、「退屈」とは目標、目指すべき道から逃げ出すことを意味します。菩薩が覚りの道を何が何でも歩み続けようと固い決意で臨んでみたものの、無限の広がりを持つ仏の世界を前に途方に暮れ、自分には到底成し遂げることができないと思った時、文字どおり「退き屈してしまう」ことになります。もとはこのことを意味します。

だからといって、先ほどの女性に「人の話を最後まで聞けないのは負けを認めて逃げ出すようなものだ!」とえらそうに言ってはいけません。おそらくもっと嫌われるに違いないでしょう。
自分の話がつまらなかったことを素直に認め、もっと興味を持ってもらえるように工夫したいですね。

自らの内面を磨き、決して退屈せず、勇猛不退の決意で臨みたいものです。

※この文章は国道沿いの掲示板「今月のことば」について書いています

命より大切な何か

命は大切です。でもその命に代えてでも、何としてもやり遂げたいと思えるものがありますか?言い換えればそれをやり遂げないのなら生きていても仕方がない、と思えるものが…。

以前新聞に次のようなお話が掲載されていました。「あなたの病気は末期ガンであり、あと数ヶ月です」と余命宣告された方が、どうしてもやるべきことを遂げるため、病をおしてそれをやり遂げ、この世を去ったそうです。その方にとって、治療に専念すればもう少し長く生きられたでしょうが、それよりもやっておくべきことを最優先しました。その方は命より大切な何かを見つけられ、本当に生きた甲斐があったと満足されて息を引き取ったそうです。自分が何のために生まれてきたのか、そして自分の使命は何かを見つけられたら本当に素晴らしいことだなあと感じさせてくれるお話です。

さて、今からおよそ800年前、宗祖法然さまに次のようなエピソードがあります。

法然さまの専修念仏の教えが広まるとともに、それに異を称える比叡山や南都仏教諸宗からの圧力、さらには弟子たちの言動が後鳥羽上皇の怒りに触れるところとなり、建永2年(1207)、法然さまの土佐配流が決定しました。法然さまは末法の世において、すべての人々が救われる道は念仏行(阿弥陀さまのみ名を一心に称える修行)であり、極楽往生のためにはその他の一切の行は修めなくてもよいと説きました。専修念仏弾圧の世相をみて、ある弟子が法然さまに「教えをありのままに説くことをお止めください」と申し上げたのに対して法然さまは、

「我たとい死刑に行わるとも、この事言わずばあるべからず」

(訳)私がたとえ死刑になるとしても、教えを正しくありのままに説かずにはいられない(説くことは当然である)。

と仰せになったそうです。正しく教えを説こうとする法然さまの誠実なお姿に、周りにいた人々はみな涙を流したといいます。確固たる信仰と信念をもってたくさんの人々に正しく伝えようとする法然さまの思いが感じられるお話です。まさに万人救済を自分の使命としていたと言えるでしょう。

自分の命と引き換えにしてもやり遂げたいこと、そう思えるものを見つけるのはとても難しいことかもしれません。でももし見つかった時、最期にきっと幸せな人生だったなあと思えることでしょう。自分にとって大切なものは何だろう?

お盆 お久しぶりです ご先祖さま

お盆といえば昔から都会に住むファミリーは田舎のおじいちゃん、おばあちゃんに会いに行き、山や海などで楽しく遊ぶというのが一般的でした。ところが今年は新型コロナウイルスの影響で思うようにいきません。お父さんやお母さんは、子どもにどんな夏の思い出をつくってあげられるのか頭を悩ましていることでしょう。

お盆は命のバトンを繋いでくれたご先祖さまが、年に一度この世に帰ってきてくれるという日本古来の風習です。今があるのはその方々のお陰です。「お久しぶりです ご先祖さま」と感謝してあたたかくお迎えしたいものです。  

「似た顔の あらば出でみん 一踊り」(安川落梧)

お迎えした霊を慰めるために古くから行われてきた盆踊り。その盆踊りの列で踊る人々の中に、「今は亡きわが子が踊っていたならばすぐに飛んで行って会いたいものだなあ」と江戸時代中期の俳人安川落梧が詠んでいます。大人から子供までお盆には必ず帰ってきてくれるのです。 それを励みに頑張って生きてこられたという方はたくさんいたことでしょう。

あちらの世界も想像してみましょう。もしかしたら夏休みに帰省する日を楽しみにしている子供たちと同じように、先立たれた方々は出発日の8月13日を指折り数えて待っているのかもしれません。16日までの3泊4日分の着替えとお土産を用意して・・・。

今年のお盆は、お墓参りに行けない方は仏壇で、仏壇がないご家庭は西を向いて手を合わせ、子ども達に命の尊さを教える4日間としたいものです。